オススメ度★★★☆☆
タイトル | シス女性のカミングアウト2025年9月号 |
サークル名 | 能町りかこ |
サークル設定価格 | 770円 |
♪シス女性のカミングアウト2025年9月号_#005
カミングアウトが映し出す奇妙な欲望の回路
【収録内容】
♪シス女性のカミングアウト2025年9月号_#001
♪シス女性のカミングアウト2025年9月号_#002
♪シス女性のカミングアウト2025年9月号_#003
♪シス女性のカミングアウト2025年9月号_#004
♪シス女性のカミングアウト2025年9月号_#005
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♪シス女性のカミングアウト2025年9月号_#008
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合計再生時間:43分25秒
「私は女です」という、ごく単純な言葉が持つはずの意味は、実際にはあまりに複雑に消費されているように見えます。その言葉が単なる性の自己認識であるにもかかわらず、男性の眼差しに触れた瞬間、性的な響きを帯び、誘いかけのように読み替えられることが少なくありません。もちろんそれは男性だけの反応ではなく、女性自身もまた「その一言にそうした効果が宿るのではないか」と意識せざるを得ない場面に直面します。本来は何の含みも持たないはずの宣言が、過剰に煽情性を付与される――その事実に、どこか居心地の悪さが漂うのです。倫理的に問題があるわけではなく、ただ「自分は女である」と述べるだけで、妙な背徳感や罪悪感が呼び起こされるのはなぜなのでしょうか。
一方で、性的マイノリティーの人々が行うカミングアウトは、社会的な意義や政治的な含みを帯びることが少なくありません。それは当事者にとっても社会にとっても共有すべき重要な行為として認識されます。しかし、マジョリティーである女性が「私は女です」と改めて語ることには、そのような社会的必然性は見出されないとされています。むしろ、それは「言うまでもないこと」として退けられ、必要のない自己申告と位置づけられる傾向にあります。
ところが、女性たちの内面に目を向ければ、また別の事情が浮かび上がります。マイノリティーが直面する困難とは異なる形で、「自分が女である」と声に出すこと自体にためらいが生じる。そこには「告白の瞬間に必ず生じる性の読み替え」を避けたいという気持ちが働いているのかもしれません。自分の存在をただ認めてもらうための言葉が、同時に欲望を刺激する信号へと変換される――その結果、「あえて言わない」という選択が取られる。女性にとっての沈黙は、必ずしも無自覚や無関心ではなく、むしろ複雑な配慮の産物であるとも言えるでしょう。
こうした状況を前にすると、単純な自己認識の言葉が、なぜこれほどまでに社会的・性的な余剰を伴わずにはいられないのか、改めて考えざるを得ません。そこに漂う微妙な緊張感は、語られなかった声や押し殺された欲望の存在を浮かび上がらせるものであり、決して無視できない問いかけとして残り続けます。
創作音声という世界は、これまでも多様な妄想を媒介してきました。その中に、「私は女です」という、あまりに簡潔な言葉だけを響かせるシス女性カミングアウト音源を、自慰行為の伴奏として用いる男性がいます。ごく一部の存在にすぎませんが、その実践には、無視できない独特の感覚が潜んでいるように見えます。
■無関係なものを結びつける「脳内統合」
映像の中の女性は沈黙しているのに、耳元で「私は女」と告げる声が重なると、男性の内面では二つが勝手に一体化してしまう。映像と音声は本来関係がないはずなのに、「彼女が自ら語っている」という錯覚が生まれるのです。この“捏造的な脳内統合”は、たんなる鑑賞を超えて、視覚と聴覚を暴力的に縫い合わせる作用を持ち、加速的に同一化が進んでいきます。
■ありふれた事実が興奮の証拠となる
「私は女です」という告白は、嘘ではありません。女性の姿とその言葉は、あまりに当然の一致を見せています。ところが、この“ありふれた事実”こそが、男性の欲望に正当性を与える論拠となるのです。彼女は確かに女である、本人がそれを認めた――この単純な自白が、彼らにとっては欲望を加速させる免罪符のように響きます。
■聞いてはいけない自白を盗み聞く背徳
日常でシス女性が「私は女」とわざわざ言葉にする場面はほとんどありません。だからこそ、その告白には異様な非日常性が宿ります。普通なら語られない内心を言わせてしまったかのような錯覚、恥じらいを帯びた声を反復させることによる倒錯感。男性たちは「聞いてはいけない弱みを聞いてしまった」という背徳を抱えながら、同時にその背徳を自慰の昂揚へと変換していくのです。
■罪悪感をすり抜ける小さな抜け道
自慰行為の裏には、「対象の女性はこの行為を知らない」という不同意の影が常に潜んでいます。そのため多くの男性は、わずかながら罪悪感を伴うものです。ところが、「私は女」という言葉は、その行為に暗黙の許可を与えるかのように響きます。事実を強調するだけの言葉が、なぜか性的同意の幻影となり、罪悪感をやわらげてしまう。この矛盾した安堵感こそが、音源の持つ特異な力なのでしょう。
■抑圧された欲望の解放
社会的な場で男性はしばしば「女性を性的に見るのは抑えるべき」という規範を内面化しています。しかし耳に流れる声は、それをあっさり覆してしまいます。「やはり女は女だ」という、反論の余地のない事実を突きつけられることで、抑え込んでいた視線や欲望が一気に解き放たれるのです。映像と音声が結びつくとき、抑圧は決壊し、男の欲望は奔流のように噴き出してしまいます。
■門外不出の内心として
幸いにも、シス女性のカミングアウトは社会的に求められていません。語らなくても済むからこそ、その内心は日常にさらされることなく守られています。そして、この種の音源は広く流通しているわけでもなく、多くの男性は存在すら知りません。
女性の「性の自白」は本来、門外不出の領域に留まるべきものです。その扉がわずかに開かれるのは、画像や映像とともにこのBGMを聴く、ほんの一握りの奇特な男性の内心においてだけ。そのときに生まれる異様な熱は、彼らの心の中に閉じ込められている限り、外部には漏れ出さないでしょう。